過去のエッセイ     3     

過去のエッセイ3

休みの朝は
 僕は髪にブラシをかけることがほとんどない。しいてあるとすれば風呂から出たときぐらいだ。髪が柔らかく、クセっ毛なので収まりがいいこともある。だから整髪料も全く付けない。しかしさすが髪が伸びてくると、収拾がつかなくなり、毎日寝癖に悩まされることになる。そのうち耐えきれなくなり、床屋へいく決心をする。床屋へ行くのは休みの日の朝、一番早い時間帯と決まっている。
 床屋の室内には、明るく、やわらかで、静かな光が差し込んでいる。それはどこか休みの日独特の光だ。先客がいるので、待合いの椅子に腰掛け、大好きな「サライ」の雑誌に目をとおす。見るのはほとんど食い物のページ。床屋行くのが1ヶ月と20日ぶりなのと、前回床屋へ行ったときは、待ち時間がなかったの
で雑誌に触れることもなかったため、ざっと20冊ぐらい読んでないのだ。少しすると僕の前に小さなテーブルが置かれ、今、豆から挽いた入れ立てのコーヒーが出てくる。僕は「ありがとう」と礼を言い、またすぐ雑誌に目を向ける。しばらく僕の番がこなければいいが。と思っても、残念にも呼び出しが入る。いつもの椅子に腰掛け、僕はご主人に言う。「床屋へ行かなければと思うと憂鬱になる。床屋は大嫌いだ」。まあこれが挨拶だ。そしてすぐに僕のお気に入りのクラシック音楽をかけてもらう。そして髪をカット。ひげを剃る。ひげそりが丁寧すぎる。どうせすぐに伸びるのだから、そんなに丁寧にしなくていい。そして洗髪。これが一番良い。整髪料は床屋でもなし。つけてもらわない。べたべたするのは気持ちが悪い。
 床屋から挨拶をして帰る時がいい。「ああさっぱりした。今日は風呂に入っても頭を洗わなくていい。最高だ。」心からの気持ちを伝え、店を後にする。床屋が終わるとスキップしたくなる気持ちだ。
 髪をきれいにカットした日は、家の者との買い物など、休みの日の行事に同行することを比較的快く許可されるのだ。


サンタへの手紙 サンタからの手紙
 24日の夜、小学校3年の娘はなかなか眠りにつけないようだった。なぜなら明日の朝には枕元にサンタからのプレゼントが置かれているはずだから。
 眠るにはまだ早い夜の時間。娘はプレゼントをくれるサンタのためにと「手紙とミカン一個」を枕元に用意した。そして言った。「サンタはミカンを食べて、英語で返事をくれるよ」。(手紙はなかなか感動ものの内容・掲載は不可)一瞬僕とママはビクッとした。そしてすぐに悟った。配達に忙しいサンタは「Thank you.」としか書けないはずと。だから娘が眠った後、枕元にプレゼントを置き、サンタへの手紙とミカンを隠し、「THANK YOU **」と書いたサンタからの手紙を置いた。
 そして朝。娘は大喜びで携帯電話のおもちゃを手にした。(電話はできないが写真が撮れてメールが書ける優れもの)そしてすぐにサンタからの手紙を開いた。「この字は見たことがある。」とにやり。僕も一緒に手紙を見たが、それは没個性の字で決してママが書いたとは悟られないはずだ。それは本物のサンタの手紙だと一応娘を納得させた。

 僕には解せないことがある。小学校3年ともなると学校で立派に情報交換の場があり、「サンタはパパとママだ。」と流布されているのではないか?...でもそれでは真顔でサンタに食べてもらおうとミカンを置き、感動ものの手紙をサンタに書くだろうか?
もしかしてパパとママを楽しませるために一世一代の演技?いやそんなことできるはずない!
 謎は深まるばかりだった。


子犬のワルツ 
小学4年生の娘の弾くピアノの音色に耳を傾けている。曲目はショパンのワルツ6番。一般的に子犬のワルツと呼ばれている小品の名曲だ。軽やかなリズムとテンポ、明快なメロディーが心地よい。娘はどうみても集中力がなく、練習時間は1日25分が限界だ。しかし毎日聞いていれば、さすがの僕も曲のあらかたは、頭に入ってしまう。(僕は全くピアノは弾けないが、いい年をして歌の音楽教室へ通っている。)毎日聴いていると、僕なりこの曲をどう解釈して、どう弾くかいつのまにか全体像ができあがってくる。

 僕はある日娘の弾くピアノを聴いて「そんな曲は聴きたくない。つまらないな。そんなピアノならオルゴールで十分だ」と怒鳴ってしまった。いつもは僕に対して強気でえばっている娘だが、泣きながらピアノを弾いていた。僕はその後続けて、自分(娘)はこの曲をどう弾きたいか、どう表現したいのか、どう思いを込めたいのか。ピアノのタッチなど細かいことは分からないが、曲をどう色づけするか明快な解釈を娘に求めた。
 練習が終わると僕はショパンという人はどういう人だったか話して聞かせた。有名なピアニストの複数のCDも聞かせ、弾き方に大きな差があること、「表現する」という行為の前では、大ピアニストも小学校の子供も同じだ。そういったことを娘に伝えた。(よくも私のような素人が言ったものだ。専門家が聞いたらなんて言うだろう?)

 何日か後、娘は、僕自身が想像して、やるであろう表現を超えた、繊細な時に大胆な弾き方をところどころ示してくれた。そして音符を追うのではなく、全体を通してまさしく自分の「子犬のワルツ」という曲を奏でていた。僕は言った。「ママ、どうだ。CDの外国のピアニストよりすごいぞ!」

 発表会は区の文化会館の大ホールで行われた。演奏の直前、僕は、ドキドキしている娘に向かって静かに言った。「うまく弾く必要などないよ! 表現しよう! 思いをこめよう!」
娘は、軽くうなずき楽屋裏へ小走りに向かった。


雨の日の運動会
朝起きて空を見上げると重たげなグレー色した雲が空全体をおおっていた。そして運動会が始まり30分もしないうちに、雨が降り始めた。雨音がはっきり聞こえる。ただ乾いていた地面はまだ余裕をもって雨を吸収している。私の娘は小学4年生。娘の走るリレー競争が終わり、しばらくすると4年生全員による一輪車の演技が始まった。4年生は男女含めて全員で約60名。一輪車を使わない軽やかなステップを踏むダンスで演技が始まった。それが終わると全員が何組かに別れ、一輪車に飛び乗り、横並びに真一文字になって手を結び、走り出した。その後二人ずつの組みになり、校庭を大きく一周する。
 二人ずつに分かれて、手をつなぐのは、一輪車に飛び乗ることができない子の為に、飛び乗れる子が支えになれる為だ。乗るのに手を添えられる壁などない校庭の中、子供同士の小さな手が大事な支えになる。娘は一輪車が得意だ。相方の子は苦手。相方の子が一輪車から落ちると娘もすぐに一輪車から降りた。そして同時に手をつなぎ同時に一輪車に飛び乗る。不安定な一輪車。それに乗る不安定同士の小さな手が、微妙な力関係を生み、お互いを助けた。それはなにか妙に不思議なことにも思えた。
 その後60名の子供達は、手を結んだ二人ずつの組を維持しながら、直線を走るグループ、円を描くグループ、一文字に水平に手を結び位置を変えないグループにまるで、自然発生的に分かれていった。一見不規則なグループ化と子供達の走る一輪車のあいまいな軌道は、彼らの未完な技術を補おうとする必死さと、全員が一輪車に乗れた喜びとが入り交じったちょっと複雑な感情を、なにか象徴しているかのようだった。
 雨足は強くなり、校庭はぬかるみ、水たまりへと変化していった。その雨は彼らの動きを妨げようとしている。紅白の帽子も髪もユニフォームもずぶぬれになっていた。しかし雨は、時として明るい日射しが私たちにもたらす散漫な感覚を封じ、はるかに私たち見学者に集中力をもたらした。・・・・そしてまもなく運動会の中止が宣言された。


のだめカンタービレ
 我が家の本棚には「のだめカンタービレ」のコミックが十数巻(全巻)並んでいる。小学6年生の娘が買いそろえたものだ。今でも、新刊が出るのをえらく心待ちにしている。

 このコミックは今すごい人気で、各巻の総計が1300万部を超えたらしい。そしてこのコミックのさらにすごいところは、クラシック音楽を題材にしていることだ。比較的話題に上ることの少ないクラシックが題材となっていることを考えると、ことさらこの数字はすごい。今後、数字はさらに大きくのびるだろう。今回フジテレビでこのマンガがドラマ化された。底抜けに楽しいドラマの展開に、実際のクラシック音楽が流れ、2重の楽しさだった。その中で特に多く奏でられたのがベートーベンの交響曲7番。優れた交響曲だが、比較的私たちの耳にとまる回数の少ない曲だ。こんなリズミカルで楽しいベートーベン交響曲もあるのだと思われた方も多いと思う。そしてタイトルシーンに流れたガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」。初めて聞く子供達にとっては、すごく新鮮な曲に感じられたことだろう。ドラマの中では多くのクラシックが演奏され、BGMにも取り入れられた。このドラマによって、挫折しそうなピアノ練習を継続できた子供さん、クラシックをやってみようと楽器を始めた子供さん、クラシックに魅せられ、CDを買われた年配の方。多くのすばらしい影響を与えてくれたことは想像に難くない。笑いと涙の楽しいドラマを提供してくれたとこと同時に、クラシックの魅力を大いに伝えてくれたことに、感謝したい。

 我が家でも、このドラマがある変化を与えてくれた。娘のピアノの先生もこのドラマのファンで、先生も影響されたのか、その中で演奏されたベートーベンの「ピアノソナタ 悲愴 第一楽章」を娘に勧めたからだ。堅苦しい?からかベートーベンを毛嫌いし、流麗な?モーツアルトのソナタばかり弾いている娘にとって、大きな変化だった。娘は、「のだめ」で演奏されたからか、予想に反して、嬉しいようで、たぶんかなりの難曲となろう悲愴の第一楽章を喜んで受け入れていた。私も影響を受けた。有名な2楽章はよく聞いていたが、あらためて第一楽章を聞くと、重くやるせない序奏。重い和音。どこか救いのあるやさしい美しいテーマの出現。そしてその展開。序奏とテーマが織りなす彩。あらためて、これがベートーベンなのだと、愚かしくも悟ったような気になった。モーツアルトにみられるような、ほとばしでる旋律と、軽やかに進行する音の流れ、美を創造する天才的な姿はない。それに代わって、感情と論理の激しいせめぎあい。そして完全主義的な音と構成への苦渋に満ちた挑戦者の姿があった。
 
 娘はベートーベンをどう弾くだろう。私はまるでピアノ弾けないが、娘の練習を聞きながら、私の仮想演奏も仕上がっていく。娘とどこが違うだろうか。その前にベートーベンの人生を話して聞かせようか。「のだめ」のおかげで、音楽への楽しみが増えた。のだめのドラマ続編をぜひお願いしたい。




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