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過去のエッセイ4

ともしび近く 衣縫う母は
春の遊びの 楽しさ語る
居並ぶ子供は 指を折りつつ
日数かぞえて 喜び勇む
囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪



囲炉裏のはたに 縄なう父は
過ぎしいくさの 手柄を語る
居並ぶ子供は ねむさ忘れて
耳を傾け こぶしを握る
囲炉裏火はとろとろ 外は吹雪
 この歌、多くの方がご存じのことと思う。文部省唱歌「冬の夜」だ。文部省唱歌(文部科学省唱歌とは呼ばない)、なにか堅ぐるしい呼び名だが、この歌を含め、「ふるさと」「われは海の子」など、美しいメロディーとともに、美しい日本語の響きをもつ名曲が数多くある。

 ここに「冬の夜」の楽譜がある。しみじみとした情緒あふれる私の大好きな作品だ。この歌難しい歌ではなく、小学校3年生ぐらいにもなれば、歌詞の理解は別として、十分歌える。しかし簡単な歌というものは、かっこつけるが難しい。上手に聴かせることの難しい歌だ。ところでこの歌の伴奏部を見てみた。この伴奏は、最後の詩の行を除き、一定の分散和音のパターンが少しずつ変化した単純な構成になっていた。これなら小学校4年の娘でも短時間に弾きこなすことができるだろうと考えた。娘の伴奏で歌う。私にとっては前から望んでいた夢。しかし練習嫌いの娘が伴奏してくれるはずがない。そこで取引をした。前からほしがっていた、カラーペンを奮発して5本買ってやるという条件だ。娘は伴奏をみてか、意外や一発で交渉成立となった。・・・・・・・娘は予想通り短時間で弾きこなした。そして私はテンポや若干の強弱を指示し、アンサンブルの開始となった。「むぅ いい気分だ!」ここは音楽教室ではない。我が家だ。我が家でピアノ伴奏と共に歌う。これは最高の気分だ。

 その後、娘は伴奏をしてくれない。もうほしいペンを手に入れたからには、伴奏をする必要性はない。動機は不純でも、私としてこれを機に、アンサンブルの、伴奏することの楽しさ、日本的情緒溢れた作品への理解、興味を期待したのだが・・・やはり花より団子か!?
 今私の一番歌いたい歌はカッチーニのアベマリア。実はこの伴奏を一番期待しているのだ。今の娘なら実力的にみて弾きこなせるはず。しかしこれを弾かせるには間違いなく大きな取引が必要になるだろう。クリスマスプレゼント級の要求を娘は提示してくるに違いない。


ショパン ノクターン 
 ショパン 夜想曲 変ホ長調 OP.9-2 この曲を聴いたことがないという人はまずおられないと思う。ショパンのノクターンと言えばこの曲。アメリカ映画「愛情物語」で使われ、一躍有名になったことから、「愛情物語」という曲名で覚えている方もおいでと思う。大変ポピュラリティーの高い曲だ。
 小学5年の娘の弾くショパンのノクターンが毎日のように聞こえてくる。もう何十回聴いただろうか。もう思い入れたっぷりに、抑揚もしっかりついて、表情豊か。なかなか見事な出来映えだ。甘美で、切ない、感傷的な味わいをよく表現している。この曲、ポピュラー音楽などに編曲され、またゆったりとしたテンポの曲なので、ピアノを練習するものにとって、どちらかというと平易な曲と思っていたが、なかなかどうして難易度の高い曲だ。特に小学5年生にとっては難しい。
 曲がある程度弾きこなせるようになるまで、プロの演奏は聴かせない。そうしないと楽譜から弾きこなすという大事な練習にならないし、またオリジナリティが養われない。でももういいだろうということで、娘とプロの演奏を聴いてみることにした。演奏者は中村紘子さん。CDを聴いてみてちょっと不思議なことに気づいた。曲が始まり主題を奏でる部分を淡々と、あまり飾り気なしに弾いているのだ。あまり歌っていない(すくなくとも私はそう感じた)。どうして?そうだ!この曲は、主題が中間部から後半部にかけては、装飾譜を多用して、幾重にも変化・変奏していく。最初の主題部分を単純にはっきりと浮かび上がらせて、その後押し寄せる波のような思いを表現する。その対比の妙がいいのだ。すべてに思い入れをいれると食傷気味になってしまう。中村紘子さんの演奏は情感と知性をよく調和させているのだ。
 私は娘に言った。「最初は少し早めにして、単純に弾こう」。娘はそれを聴いて、すぐ実行してみた。
しかしその後どうも気にくわないようだった。
娘「なんだかパクリでいやだ」
私「なにがパクリだ。パクリだって、中村紘子さんならいいではないか」
娘はその後、思い出したように、頭の部分を平坦に少し早めに演奏した。
 ある日娘に聞いた。「先生、演奏についてなにか言った?」
娘は「曲を自分のものにしているって」
私は「それは最高のほめ言葉だ」と言った。
ほめられることを極端に嫌う娘は、その時ばかりは反抗ぽいことも言わず、ちょっとうれしさを隠すように、少し低めの声で、話を違う方にふって、平静に話し始めた。


 四季の歌
作詞 作曲 荒木とよひさ

1.春を愛する人は 心清き人
  スミレの花のような 僕の友だち

2.夏を愛する人は 心強き人
  岩をくだく波のような 僕の父親

3・秋を愛する人は 心深き人
  愛を語るハイネのような 僕の恋人

4.冬を愛する人は 心広き人
  根雪を溶かす大地のような 僕の母親


 皆さん、ご存じだろうか?この歌ちょっと変なところがある。
1番と3番だ。
1番「スミレの花のような 僕の友だち」
3番「愛を語るハイネのような 僕の恋人」

どうだろうか? 
1番 スミレ・・・友だち  3番 ハイネ・・・恋人

普通の考えられる組み合わせはこうだ。
1番 スミレ・・・恋人   3番 ハイネ・・・友だち

 「四季の歌」は作詞・作曲の荒木氏が怪我で病院に入ったときに作った歌で(荒木さんは看護婦さんにとってもよく看病してもらったとのこと)、どうも荒木氏が始めから世に送った歌ではないようだ。しかしそれがあまり良い歌なので、看護婦さんらによって、歌い継いがれたということらしい。その途中においては作詞・作曲者が不明となっていたと聞く。
 どうしたことかこの歌、歌い継がれていく途中で1番と3番の言葉の組み合わせが入れ変わってしまった。
荒木さんは、その後、この歌が多くの人に愛されているということを知るのだが、もう間違いの歌詞で、多くの人に歌われている、受け入れられている・・・・・
それでは・・・間違いのままいこう!ということになったらしい。
なにかほのぼのするいい話だ。


ゴールデンウィーク日記 東京タワーに登る
 ゴールデンウィークとて、なんら特別の予定もない。しかしどこかへ行かなくては、ということで、近場の
東京タワーへ行くことに決めた。これには天気のいい日に我が家のマンションから目に入る東京タワーのなにげない姿の記憶が影響している。私と女房はうん十年ぶり。小学校5年の娘は初めてだ。
 東京タワーに着いてみると、エレベーターは長蛇の列。しかしよく見ると別の列が目に入った。係員に聞くと「階段組」とのこと。これだと待ち時間が少なくてすむらしい。意を決して、階段を選択した。階段の段数は600段。この数字がどれほどのものかは感覚的にまるで解らない。階段は外階段で、外気に直接触れられる。もちろん外の景色は、登りながら眺めることができる。これはいい。東京タワーの展望室へ階段で行くと聞くと、ちょっと恐ろしい気もするが、小さな子供が親に手を引かれて登っていく様子を見るにつけ、どうということはなさそうだ。高さの恐怖もアミを全面に厳重、頑丈に張ってあるのでそれほど感じない。実際登ってみて息もあまりあがらず、疲労感もそれほど感じない。しかしストレスの感じない心と裏腹に、目的のはっきりしているはずの足のはこびが、思うようにいかない。上を目指す心と足が一致しない。どうもちぐはぐだ。もしかしてマラソン選手の足が止まるって、こういうことなのかと訳の分からないことを考えた。しかし娘と女房は何でもないようだ。
 無事3人ともリタイアもなく展望室に到着し、女房と娘は歓声を上げていた。ところで私といえば、あまり騒ぐ気にはならなかった。それは数年前、リレー競争に出場したことを思い出したからだ。足にはある程度自信があり、息も上がらず、楽勝と思いながら、ゴール寸前に自らが仕掛けた加速で、突如膝から崩れ落ち、肩からもんどりうって転げたことを思いだしからだった。


私の好きな詩

雨の日に見る


冬、ほのぐらい雨の日は
朱欒(ザボン)が輝く、
朱欒が・・・・・・・・・・・・・・・・
れは、眼をひらいて見る夢なのか。

街燈は、ぬれている、
泥靴は喘(あえ)いでいる、
風は雀をふっ飛ばしている、
人間の後姿はいそいでいる、
歌は絶えている、
電線はひきっている
枯木はふるえている、
わたしの身体(からだ)は凍(こご)えている
わたしは祈りをわすれている、
そうして、わたしはただ見る、
ほのぐらい雨の影のなかに
ぽっかり朱欒(ザボン)の浮かぶのを 輝くのを。



大木 惇夫の詩
多田武彦作曲 男声合唱組曲「雨」の第5曲として知られている。

この詩のモノトーンの、灰色に染まった世界の中で朱欒(ザボン)だけがくっきりと色づけされて、浮かび上がってくる。それは夢?祈り?救い?の対象、象徴なのか。
寂寥感、孤独感の漂う世界の中で、最後の「ぽっかり朱欒(ザボン)の浮かぶのを 輝くのを。」という一行にえもいわれぬ救いをみる。

ザボン=ミカン科の果樹またその実。暖かい地方に多い・・・実は黄色く大型でカボチャぐらいある。(広辞林)


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